バファリンを買いにお客さんがいらした。
高齢の母親に頼まれたとの事。
念のため、どんな症状で使うのかと尋ねると、頭痛がして熱が出ているという。
バファリンは症状を抑える物で、治療する薬ではない。
もっと端折った言い方をすれば、神経を麻痺させて熱を出す指令を邪魔して、痛みを検知する機能を阻害するものである。
本人の希望もあるためバファリンは売るとして、一緒に川きゅう茶調散(せんきゅうちゃちょうさん)を案内したところ、「自分で使うかもしれないから」と買っていただいた。
http://www.kitazono.jp/syoho/sennkyuchachousan.htm
バファリンを買いに来た患者さんに、やはり用途を尋ねたら虫歯だとの答えだった。
これまた虫歯でバファリンを飲んでも痛みを感じなくなるだけで、菌の繁殖は抑えられません。
後で必ず歯医者に行ってくださいと念押しして、排膿散及湯(はいのうさんきゅうとう)を勧めた。
http://www.kitazono.jp/syoho/hainousankyuutou.htm
実はこの後もバファリンを買いに何人か来たのだけれど、万能薬か何かと間違えてませんかという感じ。
今この痛みをなんとかしたいという気持ちは分かる。
でも、痛みがぶり返す事を考えたら、痛み止めと一緒に次の手も考えておいた方が良いだろう。
「戦いとは非情なものさ。常に一手二手先を考えておくものだ」(by 『機動戦士ガンダム』より)
昼に、奥さんの妹のYさんが来た。
一泊だけの滞在だが、こちらで買い物を楽しみたいらしい。
奥さんから一緒に昼食を食べようと言われ、サイゼリヤへ出かけた。
Yさんはサイゼリヤは初めてだという。
何を食べるかメニューを見て迷ってるので、適当に注文して小皿で取り分けましょうと提案。
パスタやピザなんかは、その方が色々と味わえて楽しいし。
そしたら奥さんともども、かなりの品数をバンバン注文していく。
パスタだけでも3種類。ピザが2種類。
その他、スープやサラダなどなど(^_^;)
そして、店員は店員の方で、何の考えも無しに次々と持ってくるもんだから、テーブルがいっぱいになり、皿が乗り切れない。
注文時に分かりそうなものだろうに、なぜ順番を確認しておくなりしておかない?
しかも、空いた皿を下げにも来てくれないし=3
仕方が無いので自分で厨房に運ぶ。
店員の数が少なくて手が回らないなら、セルフサービスにしてくれてもいいんだけど。
パスタが一品、どうにも不味くて残ってしまい、それ以外は奥さんと妹で平らげてしまった。
ブタかトド同然の奥さんと違い、Yさんはホッソリしてて抱きかかえてもヒョイと持ち上がってしまうくらいの体型なのに、どこに入ってしまったのか。
(医学的には、体型と食欲の相関関係は無い。)
私だけお店に戻ると、サトウ製薬の営業マンさんが来ていた。
スギ花粉が山梨の方から埼玉にかけて、かなり飛散するだろうとの情報。
「いやぁ、楽しみですねぇ」と営業マン氏。
「そうですねぇ」と私(⌒▽⌒)
………自分も花粉症なんだけど(爆)
そう言う営業マン氏も花粉症で、一緒に苦しみますので皆さんもひとつ、どうぞヨロシク。←オイ
「あら、コンテナからも何も出ないわ」と、お母んがなにやら残念がっている。
何かと思ったら、先日やってきた小学校の衛生検査の結果データの話だった。
「こっちに責任の無い物から出てくれると、報告書も書きようがあるのに」と。
近所の書道の先生の旦那さんがいらしたので、ついでといってはなんですがと、次郎の名前の書き方を後で教えて下さいとお願いした。
本当は、“命名”とかいうのは名前を付けた直後に書くのだろうけれど、漢字五文字で書くというのが意外に難しく、そのままほったらかしにしてあったのだ。
「プーアール茶はありませんか」と尋ねて来たお客さん。
なんでも、花粉症の予防として何かの雑誌で紹介されていたらしい。
なんだか、季節行事みたいな感じですな。
まったく効かないとは言わないけれど、漢方薬だって複数の生薬を組み合わせて効能が発揮されるように工夫と研究されて作られた物なのに、単品の食べ物や飲み物が、どうしてそれほど効果があると思えるのか不思議。
まぁ、お茶好きな私は、花粉症の季節が過ぎた頃にスーパーで安売りで買えるので、そういうキャンペーンは構わないけれど。
とりあえずお茶については、近所のスーパーを案内しておいた。
咳の相談で患者さんが来店。
本人は風邪のひき始めと言うものの、こちらからするとかなり進行してしまった様子。
よく、風邪をひいた患者さんは「私は鼻からくる」とか「お腹にきやすい」、「咽喉から来るんです」と言われるが、いずれもそう表現したくなる気持ちは分かるけれど、正しくない。
風邪は感冒というくらいで、冒されるもの。
体表部の多くを覆う皮膚で防ぎ、目や鼻の粘膜で堰き止めようとしているのを突破されると、その奥が防衛ラインとして抵抗する。
それが鼻の症状であり、咳であり、さらに奥へと侵入されて胃腸障害が起きるのだから、症状が出たら“ひき始め”ではないのだ。
まだ食欲はあるようなので、麻黄湯(まおうとう)と五虎湯(ごことう)を組み合わせて飲んでもらう事にした。
http://www.kitazono.jp/syoho/maoutou.htm
http://www.kitazono.jp/syoho/gokotou.htm
咳が落ち着いた頃には、肺が乾燥しているだろうから、後から麦門冬湯を使うようにもお話した。
http://www.kitazono.jp/syoho/bakumondoutou.htm
夕飯はYさんと一緒に家で鍋。
奥さんが鍋に入れる物の順番をいちいち指示して鍋奉行のような事をしているのに笑う。
普段の料理じゃ、あり物を買ってきて皿にも移さずにパックで出す人が何を言ってるのかと(笑)
そして、Yさんが観たいという事で奥さんがレンタルしてきた『世界の中心で、愛を叫ぶ』の劇場版を鑑賞。
http://aiosakebu-dvd.jp/home.html
あれだけ話題になった作品だから、ネタバレも何も無いとは思うが念のため警報を発しておこう。
ネタバレ警報発令! ネタバレ警報発令! ネタバレ警報発令!
物語は主人公の朔太郎の婚約者である律子が、結婚を目前にしたある日突然に失踪し、行き先が2人の故郷である四国だと思い当たって後を追う。
そして故郷を辿るうちに、高校時代に初恋の相手だったアキとの日々や、そのアキを病気で失った時の記憶を想い出していく。
観終わった感想を一言で述べると、「世界の中心で愛を叫ぶジコチュー(自己中心)男」といった感じ。
原作もテレビ版も知らないが、劇場版では朔太郎は私の年齢に近く、本来は80年代の描写にノスタルジーを感じても良いはずなのに、ちっとも感じない。
ダ埼玉育ちとはいえ東京に近かった事と、四国の田舎町との環境の違いかとも思ったが、どうも違う。
観ている間にチラチラと別作品が思い浮かんでいた。
それは高畑勲監督の『おもいでぽろぽろ』とジュゼッペ=トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』だ。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005R5J5/ref=ase_koukokusyuu0b-22/250-6199282-7287443
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005V2JF/250-6199282-7287443
どちらの作品もやはり田舎町での想い出話そのものが舞台なのに、すんなりと主人公の記憶を“体験していない”にもかかわらず自分の物として感じる事ができた。
ところが、この作品に出てくる朔太郎を含む登場人物が、どうにも他人行儀で入り込めない。
普通、過去の自分を写真なりビデオなり日記や手紙などで振り返るとき、そこには気恥ずかしさというものが伴う。
「うわぁっ、こんなことしてたよー」と赤面したり、なんとか客観視しようと「バッカでー」と当時の自分を罵倒してみたり。
それが観ている間中ずっと、呆れとして「こいつ……バカ………?」と、客観視どころか、本当に赤の他人にしか思えなかった。
もちろん、まったく未知の世界を神のような視点から眺めるという楽しみ方もある。
しかしそれにしては、狙ったセピア調の色調の画面作り、淡々とした物語の展開と、観る者の想い出に入り込もうとする作風は、コッチに来て下さいと言わんばかりで、思わず「やだよ!」と追い返したくなる感じだった。
物語り半ばまで行ってもそんな状態だったから、アキが入院してからは「いつ死ぬんだろう」、「いつ死ぬんだよ」、「早く死んでくれよ」とまで思ってしまった(苦笑)
でも、なかなか死んでくれなくてイライラ。
で、この作品の欠点にハタと気がついた。
アキが入院する前に、朔太郎がアキが白血病になって苦しむという嘘を書いてラジオに投稿したら懸賞のラジカセが当たって、それをアキに怒られるというくだりがあるのだが、それってこの作品そのものじゃないのか?
あれは重要なエピソードの1つだけど、それを効果的かつリアルに描く事ができなかった時点で、こりゃ監督と脚本家の打ち合わせミスのような気がしてきた。
そのシーンが、作品全体の完成度を物語っている。
だから、アキを病院から連れ出したのに、台風のためオーストラリアへ行く飛行機が飛び立てず、係員に詰め寄る朔太郎の行為も、空港で倒れたアキを抱きかかえて「助けて下さい!」と泣き叫ぶ朔太郎の姿も、後ろから蹴りを入れたくなってしまうのだ。
そして、やっと終わると思ったら、ドンデン返しが。
ドンデン返しと言うか、蛇足と言うか微妙なのだけれど、入院しているアキと朔太郎の交換日記の音声テープを届けていた小学生の女の子が、実は今の婚約者である律子だったという事が分かる。
その律子は、最後のアキのメッセージが吹き込まれたテープを朔太郎に届ける途中で交通事故に遭い、そのままテープを渡せずじまいだったという事が明かされた。
アキの最後の願いを叶えるために、オーストラリアの大地に散骨をしに2人は向かい、タイトルの通りに朔太郎は叫びながらアキの遺骨を風の中に撒くという感動的なシーン………に、ならないんだなコレが。
後半まで説明的な台詞を省いていたはずなのに、律子が突然ことの真相というかあらましをベラベラと喋って物語の“まとめ”に入っちゃうんだもの。
なんで、もっと上手く途中途中に分散して入れ込めなかったのかと残念。
最後の感動的なシーンの前に、思いっきり観客の頭を醒ましてどうするのか。
エンドクレジットが流れる前に現実に引き戻されちゃったもんだから、つい、アキの骨を撒いたその後に律子とエッチするんだろと、身も蓋も底も無い事を考えてしまった。
ところで作品タイトルは、なんでも編集者が付けたんだそうで、作者自身は『恋するソクラテス』というものを考えていたらしい。
なるほど、確かに作者のタイトルでは売れなかったかもとは思う。
でも、このタイトルを持ってくる編集者もどうか。
最初奥さんから「『世界の中心で、愛をさけぶ』って知ってる?」と訊かれた時に、『世界の中心で愛を叫んだけもの』とは、奥さんにしちゃ随分と気の利いた作品を出すなと思ったら、違うと知ってガックシという事があった。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4150103305/ref=ase_jugem-22/250-6199282-7287443
それで、てっきりハーラン=エリスンの同作品からタイトルを拝借したのかと思ったら、同作品のタイトルを意図的に使った『新世紀エヴァンゲリオン』の最終話『世界の中心でアイを叫んだケモノ』から孫引きしたそうな。
私はパロディとかオマージュは大好きだからそれでも良いけど、せめて拝借する作品の事は知っておいても良かったんじゃないかい。
エヴァの方は、カタカナにする事でどうとでも受け取れると共に、最後には主人公は「僕はここにいていいんだ!」と自己肯定する事で「世界の中心でI(アイ)を叫んだケモノ」という解釈ができた。
ある意味、人の顔色を伺い、人との距離を気にしすぎる主人公がジコチューに目覚めるという、良いのか悪いのか分からないラストだったけど、なんか許せたよ。
それに比べて、最後の最後まで自己中心な自分を省みないまま、愛を叫んだ気になってる、本作の主人公は許せないなぁ。
今夜はYさんが泊まっていくので、私はそれを口実に実家に帰った。
久しぶりに、次郎の夜泣きから解放されるのがせめてもの救いであったが、この不快感はどうしてくれようとイラついたまま就寝。
あっ、『世界の中心、出逢い系サイト』という駄洒落はどうか。
どうかと訊かれても困るかね(苦笑)
≪育児日記≫
午前中、妹と待ち合わせて新宿へ。
久しぶりだけど、正月以来かな?
外に出て、ここまで来たの……。
それからすぐ川口へ。
旦那を携帯で呼んで、サイゼリアで昼食。
次郎も連れてきてもらい、スープを少し与える。
この日、風が少々強かったが、次郎を薬局に預けて妹と自転車で買い物へ。
夕飯は鍋で、『世界の中心で、愛をさけぶ』を観てから旦那は実家へ。
夜中、やはり次郎が泣いて1~2度起きた。